ミドルのローカル旅② 奥豊後に荒城あり〜 大分県竹田 岡城〜
竹田の地にて名曲に導かれる
春高楼の花の宴 めぐる盃かげさして
千代の松が枝わけいでし むかしの光いまいずこ〜♪
大分県奥豊後に位置する豊後竹田駅では、「荒城の月」が接近メロディとして流れる。この曲は音楽の教科書に掲載(昭和の時代だけど)されていた不朽の名作、この歌詞の意味を考察する授業もあったと思い出す。先の1番の歌詞は、昔の栄華を歌ったものとされる。
作詞は土井晩翠、作曲はこの竹田出身の瀧廉太郎。そのため、「荒城の月」は瀧廉太郎が岡城にて構想したといわれる。
その岡城跡へは駅から城下町を抜けて歩いて行く。30分ほど歩くとトンネルが現れ、ここを抜けた坂道を上がると岡城跡料金所がある。ちなみに、大分県は日本一トンネルが多い。
料金を払い緩やかな坂を経由して城跡へ向かうと、今度は遠くから「荒城の月」が聞こえてくる。しかし、メロディがやや不揃いである..おや?
それは、メロディは道路を車が走行して響いているものだった。音が鳴るグルービング工法がすぐそばの道路に舗装されているようだ。そのメロディの聞こえ方は車種や天候によっても変化するらしい。本日はそんな、やや揃わないメロディを聴きながら大手坂を歩いた。
悠久の時を刻む断崖絶壁の地
坂をあがると、うっすらと苔に覆われた緩やかな登城道と蒲鉾石、奥には槍台であったろう石垣が見えている。
岡城が築城されたのは800年も昔のこと。源義経の迎入れのために築城されたそうだが、義経は出航したものの難破によりたどり着いていない。その後690年にわたり、幾度も城主が交代し1874年に廃城となった。その間、薩摩の島津軍が3度攻撃するも岡城を落とせず撤退している。それが難攻不落の城と知れ渡り、より堅固な城へ変貌した。そして、今は石垣だけが残っている。
苔のむした香りのする石段は、はじめ緩やかなものの徐々に勾配がきつくなる。大手門跡に踏み入れると、なるほどここが防御エリアだと窺える。復元もしくは既存の城と違って、城跡は、残された跡から想像力を膨らませる面白さがある。
大手門跡から屋敷跡を横目にまっすぐ進むと、この城跡の見どころの一つである三の丸高石垣が見えてくる。
さらにもう一段上がると本丸跡が位置する。
敵の動きもいち早く把握できたであろう眺望が、現世で秀逸な絶景を見せてくれる。切り立った断崖絶壁にそびえる石垣、そこから望む阿蘇、九重連山、祖母山の悠々とした姿だ。
異文化の根付く城下町
岡城の城下町は志賀氏が城主の時代(1369年〜)に民家を移し建設されている。中心の町割りは江戸時代からほぼ変わらず、武家屋敷も残っている。今回、二つの文化に触れてみた。
一つは竹田には、国内屈指のキリシタン遺物と遺跡が残されている。そう、「キリシタンの里」である。だが、資料がないためこの地のキリシタンの歴史は謎が多い。キリシタンベルの中でも重量108kgと最大級の「サンチャゴの鐘」(重要文化財 竹田市立歴史資料館)がこの地に伝わり残るが、どのようにして長崎から伝わったかこれもまた謎である。
そして、キリシタン洞窟礼拝堂だ。訪れてみると、その場所は武家屋敷から目と鼻の先なうえ、想像したよりも綺麗な状態で残されている。おそらく、藩に隠され守られてきたのだろう。
もう一つは和菓子の「但馬屋老舗」である。なぜこの豊後の地に「但馬」という名が?ふいに思うところ、初代但馬幸助は但馬で生を受け、京都伏見で菓子の修行を積み岡藩主中川公に召されたそう。そして、生まれの国にちなんで「但馬屋」を屋号にし、創業1804年と大分県で1番歴史が古い菓子屋として根付いている。
店内には代表的な銘菓「荒城の月」「三笠野」をはじめ、「生菓子」「半生菓子」「干菓子」が並び、どれも素材と製法へのこだわりが見てとれる。特に茶の席にも出される上生菓子は、季節のうつろいだけでなくこの竹田の地を表し細工も味も繊細。
今回の竹田の旅はまさに五感で愉しんだ旅となった。