小説:恋ハナクトモ #3「怒れるスルメ」
気がつくと、11時近くになっていた。まずはとり急ぎ、子どもの預け先を探さなければ!
検索してもうまくみつけられなかった。何しろ母子手帳も何もない子どもだ。預かってもらえるのか?そう思いながらも、行って確かめるほどの勇気もない。とはいえ、こんなわけのわからない状態で離れて暮らす家族にはもちろん相談できないし、母親が誰かすら、すぐには判明しそうにない。そもそも夏織はもう電話をとってくれない。孤独にワンオペ育児する世の中の主婦たちの苦悩がよぎる。今まで1ミリも気にしたことがない世界だった。
うっかりするとしんみりしそうな気分を追い払って、とりあえず出社する方法を考え続けた。
仕方ない、悪いがスルメだ。
スルメというのは、同じ部署の3年目の女性で、入社時、教育担当だったことから、何かとゴタついた時や面倒が出た時にこっそりサポートを頼んだりする後輩だ。酒は弱いのに、スルメが好きで飲み会ではそればかりしゃぶってるので、面白がられて、あだ名になった。教育担当だけに、だいぶ彼女の失敗の尻拭いもしたし、飲み食いもさせていたから、研修期間が終わっても気心の知れた先輩後輩として相談に乗ったり愚痴を聞いたり、パワハラにならない程度に頼み事をしたりしていた。会社には知られるわけにはいかないが、仕事に支障が出ないよう知恵を絞るには、女性の後輩は、かなりの頼みの綱のような気がした。
「おはようございます、上園先輩、遅刻ですか?」
「俺がいう前に、言うなよ」
「この時間ですからね。それしかないかと」
「それもそうなんだが、お前に相談があるんだ。助けてくれ!」
「なんですか、朝から。嫌な予感しかない」
「いま俺は少々熱があって病院に行っていることになっている。今日は、昨日の残務処理で午後からは出社しなくちゃいけないんだが、ちょっと困ったことになってな。すまないが、お前、今日午後から少し時間とれないか?」
「…電話ですまないようなことなんですか? 全くもって嫌な予感しかない」
「なんなんです?これ」
事情説明もそこそこに、強引に赤ん坊を押し付けて仕事に行った俺が帰ってくるのを待ち構えていたスルメのひとことだ。怒っている。スルメは怒っても怒鳴らない。その代わり、声が低くなって凄みが出る。そこは新人の頃から可愛げがないところだった。
はぁっと、深呼吸のようなため息を長めに吐いて、スルメはさらに低く、静かに言った。
「で、どうするんです?」
玄関先で睨むスルメを押し除けるように部屋に上がりながら、ジャケットを脱ぐ俺をスルメが赤ん坊を抱いたまま追いかけてくる。
「つまり、ノープランなんですね?」
「そりゃ、そうだろう。仕方ないよ、朝起きたら隣に赤ん坊が寝てたなんて、誰が信じる?」
「でも、先輩の子なんですよね?」
「そ、それは、そこに、その紙に書いてあるだけで…俺はそんなだらしないことは…」
「身に覚えがないと?」
スルメを問い詰めたことは何度もあったが、こんなにスルメに詰められることは、かつてなかった。俺はすっかり嫁に浮気がばれた夫のような気弱な心持ちになっていた。
「身に覚え、ないわけはないですよね? 少なくともその時点では、彼女がいたんですから…え?…まさか、彼女の他にも? 同時期に? …呆れた!」
「ど、同時期にって、そんなわけないだろう? ただその、この子だって、生後何ヶ月くらいなんだ?見た目でわかるか?お前…そうなると少しは幅が…」
「はいはいはいはい…」
スルメは一旦、赤ん坊を起こさないように静かにベッドに寝かせ、戻ってきて言った。
「広告代理店の中堅営業マン35歳独身! 身長185センチ、醤油系ながら顔も悪くない。合コンだなんだと先輩が主催すれば女子が集まってくれて、幹事なのに結局一番モテて困るって話も聞いたことありますよ? だからって、母親が誰かもわからない子を拵えるような遊び方、していいわけないじゃないですか!」
「してないよ、そんなこと! 何かの間違いじゃないかと思うけど、もし百歩譲って俺の子だとしてよ? そりゃ、母親は夏織だと思うよ?」
スルメは、一瞬、え?という顔をして、
「そうなんですか? だったらとっとと彼女さんに連絡とって話し合ったらいいじゃないですか?なんで私まで巻き込まれちゃってるんですか?」
「夏織とは…別れてから連絡つかないんだよ、電話とってくれなくなっちゃって…」
下を向いたせいか、急にくぐもった声になったのが、自分でもわかった。
「え? こんなことしておいて? いくら別れるつもりだったとしても、この仕打ちはないですよ、一方的すぎる。酷い彼女ですね!」
「いや、夏織はそんな…」
「そんな女じゃないとでも言うんですか、この期に及んで。だったら逆に、そこハッキリさせましょうよ!」